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書く歩く(第13回 聖夜)


第13回 聖夜

 前回につづいて向田邦子の話。
『マスク』〈文春文庫『無名仮名人名簿』所収〉というエッセイがある。向田がラジオの台本を書いて暮らしていたころのことだ。締め切りぎりぎりで上がった原稿を自分で印刷所に届けることになる(彼女は作家活動を通じて筆の遅いひとだったようだ。「書けないのではなく、遊んでいて書かないから約束の時間に遅れてしまう」という久世光彦氏の証言もある〈『触れもせで 向田邦子との二十年』講談社文庫〉)。
 クリスマス・イブで、ジングル・ベルが流れる街を、彼女は地図を片手にちいさな印刷屋にたどり着く。すると、風邪っけらしいマスクをした中年女性が無愛想に応対した。「あんたのとこの先生の字はすごく読みにくい。タイプを打つほうの身になって、もうすこしわかりやすい字で書くように言って」。どうやら先方は、ジーパンにサンダルをつっかけた彼女をお使いだと思ったらしい。「帰ったら伝えます」と彼女も話を合わせた。しかし、相手は途中で彼女がその“先生”本人であることに気づいたらしく、ガスストーブの上のやかんをとってお茶をいれてくれようとする。ところが、やかんの把手(とって)が熱くて持てない。そこで、カーボンで黒く汚れたマスクをはずして、それで把手をつかむ。ふたりは暗い作業場で、黙って薄いお茶をすする。“聖夜”という言葉を感じたクリスマスは、この時だけだと彼女は書いている。

 20代の一時期、僕はテレビ雑誌の記者をしていた。年末進行で忙しくて、イブの夜も帰宅するのにタクシーを拾ったのが午前1時過ぎだった。
 運転手さんが僕の顔を見て不審そうに言った。「お客さん、素面(しらふ)だね」
 クリスマスだし、酔客ばかり乗せていたのだろう。酒を飲んでいない深夜の乗客がよっぽど不可解だったらしく、ぼそりとこんなことをつぶやいた。「おっかねえな、まさか強盗じゃないよね」
 それが転職を繰り返していたあのころの僕が感じた“聖夜”だった。


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上野 歩(うえの・あゆむ)

1962年東京生まれ。作家。『恋人といっしょになるでしょう』(集英社)で小説すばる新人賞受賞。文芸社にて執筆アドバイザーを務める。新感覚サイコミステリー『鳴物師 音無ゆかり 事件ファイル』を文芸社より刊行。
公式HP《上野亭かきあげ丼》
http://www.uenotei.com



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