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書く歩く(第69回 富士山)


第69回 富士山

 僕は千円札を片手に本栖湖畔に立った。裏面の逆さ富士は、ここからの眺望を描いたものらしい。なるほど、そのとおりだった。周辺の山や湖の形が、お札の風景とそっくりそのままである。ただ、真ん中にそびえる富士山だけが目の前になかった。雲に隠れてしまっているのである。
 こうして風があると、たとえ富士山が見えていたとしても、逆さ富士とはいかなかっただろう。湖面が凪いで、まさに鏡のような時、富士の姿がそこに映り込むわけだからだ。また一方で、この風が雲を押し流し、富士山が姿を現してくれるのではないかという期待もあった。
 そこで、野口英世の肖像のE号券を財布にしまって待つことにした。ここに立って、風景と見比べるために取り出した千円札を風に飛ばされた人は少なくないだろう。 札が湖に消えてしまうと、やがて本栖湖の神が現れる。そして、「おまえが落としたのは、この1万円札か?」と尋ねる。「いいえ、違います」と応えると、神は湖中に消え、今度は5千円を手にして現れる。やはり「違う」と応えると、神は千円札を持って現れた。それが自分の落したものだと伝えると、正直をたたえられ、1万6千円を授かるという伝説がある。嘘です。

 雲は刻々と動いているが、次の雲がまた富士山を隠してしまう。だが、やがて奇跡のように、その山頂部分だけが、少しのぞいた。それは、予想したよりもずいぶんと高い位置にあった。太宰治の『富嶽百景』を思い出す。「はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがつた。私が、あらかじめ印(しるし)をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂きが、すつと見えた。おどろいた、といふよりも私は、へんにくすぐつたく、げらげら笑つた。やつてゐやがる、と思つた。」
 もうひとつ、富士山のすごいところは、常に自分が立っている場所が正面に違いないと感じられることである。どこから見ても絵になるのだ、富士山は。
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上野 歩(うえの・あゆむ)

1962年東京生まれ。作家。『恋人といっしょになるでしょう』(集英社)で小説すばる新人賞受賞。文芸社にて執筆アドバイザーを務める。新感覚サイコミステリー『鳴物師 音無ゆかり 事件ファイル』を文芸社より刊行。
公式HP《上野亭かきあげ丼》
http://www.uenotei.com



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